上原茂樹先生のご逝去に謹んで追悼の意を捧げさせて頂きます
当会の母乳育児支援活動を先頭で牽引され、理事長も務められた上原茂樹先生が2026年4月19日ご逝去されました。
享年73歳でした。 先生のこれまでのお人柄、お仕事を偲びながら謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
上原先生は奈良のご出身で、東北大医学部に進まれ、昭和53年(1978年)に卒業、東北大医学部産婦人科教室に入局され産婦人科医の道に進まれました。実はこの頃、大学は激動の時期でしたが、学園闘争も収まりつつあった時を狙って政府は国立大学の学費を4倍に引き上げました。当時上原先生の学年は昭和52年卒業予定でしたが、この学費値上げに反対し、全員が進級試験をボイコットし留年しました。その為、昭和52年卒業予定の学年は53年卒業予定の学生と一緒に53年卒業となり、この年の卒業生は2学年分180名以上となりました。上原先生もそのボイコットの一人でした。この頃は大学も大変な時期で留年が当たり前で、実は私も2年留年しています。 上原先生は東北大産婦人科では染色体の研究など遺伝疾患の研究をされていました。 1982年から83年、米国のハーバード大学に留学されています。私は1985年に仙台市立病院から東北大小児科に移り、新生児医療を立ち上げ周産母子部(周母)を設立することになりました。 その後1990年頃からでしょうか、その周産母子部の産科のチーフに上原先生が就任され、新生児のチーフだった私と共に助教授として多くのことを決め合う関係となりました。毎週月曜の昼には産科新生児科の医師20人程が集まり、当番医が頼んだ昼食を全員で食べながらその週の方針を話し合いました。「産科からは在胎24週の妊婦さんが切迫の状態だが若し分娩となってもNICUは収容可能か?」「三つ子妊娠の妊婦さんがもう持ちそうもなく、30週で帝切したいが大丈夫か?」などの投げかけがあり、新生児側からは出生した超低出生体重児の経過の報告や、新生児受け取りの可否についての報告を行ないましたが、常に命の大切さに直面した緊迫した会議でした。 上原先生と私は,その他に毎朝その日の状況を話し合い、ハイリスク妊婦さんの方針を立てました。その後2002年に上原先生は東北公済病院の産婦人科部長に就任され、私も期を同じくして2002年に籍を宮城県立こども病院に移し、共に東北大周母を去ることになりました。ハイリスク妊娠、ハイリスク新生児に直面した10年以上の緊迫した日々を文字通り二人三脚で過ごしました。 上原先生はその頃はまだ母乳育児には取り組んではいませんでしたが、2002年8月には仙台国際センターで「第11回日本母乳育児シンポジウム」を私が実行委員長で開催した際に、当時公済病院の助産師だった佐藤梅子さんが「上原先生が会場に来ていますよ」と嬉しそうに私に報告されたことを今でも覚えています。その後東北公済病院の病院だよりのニュースに、上原先生が母乳育児の重要性について長い文章を掲載され、これは上原先生が母乳育児を支援することを宣言された、ということで上原先生を当会にお招きし、今度は母乳育児支援での付き合いが始まることになりました。 当時私は「日本母乳の会」の理事でしたので、「日本母乳育児シンポジウム」を是非上原先生に実行委員長で開催して頂きたく運動しましたが、2010年には上原先生が実行委員長での開催が決まりました。その時の理事会で僕は上原先生に東京から電話し、「決まったよ、やったよ」と報告したことを覚えています。その後上原先生も「日本母乳の会」の理事となり、当時の課題であった法人化には先頭で尽くされました。そして素晴らしいシンポジウムを主宰されました。10年の間に同じ県で2回「日本母乳育児シンポジウム」が開かれたことは初めてであり、その後も無いと思います。 日本母乳の会」の理事はBFHの選考委員でもあり、BFH審査に全国中の施設を二人で何度も訪れました。 2007年に当会がNPO法人となり、創立20年の2013年には上原先生に理事長となって頂き、2005年から2016年までに宮城県で5施設がBFHとなり、母乳先進県宮城を作り出すことが出来ました。 2020年3月に上原先生が東北公済病院を退職されることとなりましたが、その時に入院され3月30日に手術を受けたという連絡を貰いました。その手術が膵頭切除術であったと聞き、これは大変なことだと思いました。しかも黄疸が強くなっていたということも聞き、重度の膵臓癌であったことを知りました。それからの上原先生は抗がん剤の投与を受け乍ら、大変な生活を送られたと思います。抗がん剤治療は私も短期間だけ経験しましたが、とても辛いものです。それを淡々と続けて来られた先生の意志の強さに敬意を覚えるのみです。先生はその間コロナワクチンの立ち合いとか、急患センターの産婦人科当番などを続けられ、仕事も行ってこられました。当会の理事会のメールでは適切アドバイスを適切な時期に幾度も頂きました。 手術後に上原先生とお会いするのは毎年のフォーラムの時位となりましたが、その時は必ず隣に座り、色々話を交わすことが出来ましたがいつも元気な御様子でした。昨年のフォーラムでもお会いし、「がん細胞はまだ消えていないけど進行もかなり遅いので、そろそろ抗がん剤ももういいかななんて思ったりもしますよ」と冗談気味に話しておられました。
今年になり、4月の仙台市医師会誌には急患センターの当番医に名前が載っていたので、手術後7年目に入り、元気なんだなと思っていました。それが突然の訃報で驚いています。 お聞きすれば、4月11日に突然の腹部激痛で救急車で東北大病院に入院され、そのまま4月20に息を引き取られたと伺いました。ご本人としても予想されない経過だったと思います。 長くなりました。上原先生とは東北大周産部から始まり、当会、日本母乳の会その他多くの所で長いお付き合いとなり多くのことを教えて頂きました。 妊婦、褥婦のメンタルケアについてはとても心配され、多くの文書、講演を残されました。 その上品な話し方や仕草について大学の助産師さんたちは上原先生を「うえさま」と呼んでいました。 今でもその語り方、声、そして「うふふ」という独特の笑い声が聞こえるような気もします。 ご逝去された今はご冥福をお祈りするしかありません。 上原先生、これまでのご活躍、お仕事、そして闘病生活、本当にお疲れ様でした。 どうぞ安らかにおやすみ下さい。
合掌
みやぎ母乳育児をすすめる会 初代会長 堺武男